山あいの静寂に抱かれた老舗旅館『翠明閣』。
離れ「山吹の間」を包む夜気は、真夏特有の重苦しい湿り気を帯びていた。遮光性の高い重厚な襖の向こうからは、夫・昭雄の規則正しく、しかしどこか無機質な寝息が聞こえてくる。
結婚十五周年。節目を祝う旅のはずだった。
だが、夕食の席で交わされたのは、昭雄の勤める銀行の融資案件や、定年後の資産運用の話ばかり。志保が新調した、若草色の淡い地紋が入った浴衣にも、彼は「ああ、清潔感があっていいな」と、事務的な一言を添えただけだった。
志保は鏡を見るたび、目尻の微かな翳りや、肌の弾力がわずかに失われていく恐怖に怯えていた。四十路。女としての「盛り」を過ぎ、緩やかに枯れていくのを待つだけの毎日。誰かに、理性が焼き切れるほど激しく求められたい。そんな、貞淑な妻の皮を剥いだ先にある本能的な渇きは、高級な京風会席料理では到底満たされることはなかった。
火照った身体を鎮めるため、志保は一人で月見テラスへと出た。
不意に、暗がりの底から低く、湿り気を帯びたバリトンボイスが響いた。
驚いて振り返ると、そこには宿の若旦那、遼平が立っていた。
「見回りですよ。……それと、夕食の時のあなたの瞳が、あまりに寂しそうだったので。気になって、つい」
遼平がゆっくりと、獲物を追い詰める獣のような足取りで距離を詰める。
テラスを仕切る格子に手をかけ、志保の逃げ道を塞ぐように身を乗り出した。彼の体温が、夜風に乗って志保の頬を撫でる。昭雄からはもう何年も感じたことのない、強烈な「男」の匂い。
「わかっています。だから、こんなに脈打っているんでしょう? 隠さなくていい。あなたの身体が、何かを欲しがって震えているのが、僕には見える」
遼平の指先が、志保の細い手首を捉えた。
拒もうとした力は、彼の指の節くれだった硬い感触に触れた瞬間、嘘のように霧散した。
耳元で囁かれる言葉のひとつひとつが、志保が長年築き上げてきた理性の壁を、一枚ずつ剥ぎ取っていく。彼は志保の腰を強引に抱き寄せると、浴衣の合わせに迷いなく熱い手を差し入れた。
志保は咄嗟に自分の口を両手で塞いだ。
襖一枚、距離にしてわずか三メートル。その先には、自分を聖女のように信じ切っている夫が眠っている。その極限の背徳感が、未だかつて経験したことのない鋭い快感となって、志保の背筋を雷のように駆け抜けた。
遼平の唇が、志保の項から肩へと滑り、熟れた果実を啜るような濡れた音を立てる。
「いいですよ、旦那さんに聞こえても。それとも、僕に口を塞がれたいですか?」
遼平は志保をテラスの濡れ縁に座らせると、自ら膝をついた。
彼は志保の足を割り、露わになった太腿を強く割り開く。月光に照らされた、四十路の白い肌。それは夫の知らない、獣のような男に晒されるための色を帯びていた。
羞恥心で顔を真っ赤に染めながらも、志保の身体は正直だった。彼の手指が、長い間、忘れ去られていた秘められた蕾に触れた瞬間、志保の腰は勝手に跳ね、甘い雫が濡れ縁を汚した。
遼平は志保の抵抗を軽くいなすと、自らの熱い塊を彼女の口元へと運んだ。
初めて経験する、男の生々しい、圧倒的な存在感。
志保は涙を浮かべながらも、夫への裏切りを噛みしめるように、その熱量を舌で受け止めた。喉の奥を突き上げられるたび、自分が「壊されていく」快感に脳が痺れる。自分を淑女だと思っていた自尊心が、男の匂いと唾液にまみれて溶けていく。
そして、夜の静寂を切り裂くように、二人の身体はひとつになった。
昭雄との、義務的で予定調和な行為とは違う、強引で、魂を揺さぶるような蹂躙。遼平が突くたびに、志保の視界は火花が散るように明滅し、自分が「誰の妻」であるかも、ここが「どこ」であるかも忘れ、ただ快楽を貪る一匹の雌へと堕ちていった。
「……りょ、遼平さん……遼平さんっ! お願い、もっと……もっと壊して……っ!」
禁断の名前を呼んだ瞬間、志保の中で最後の一線が弾けた。
夫の寝息が聞こえる中で、別の男の種を、その身の奥深くに受け入れる。
その絶望的なまでの背信行為が、四十路の身体を極限まで感化させた。
志保は何度も絶頂の波に呑まれ、最後は遼平の逞しい胸に顔を埋めて、声にならない悲鳴を上げながら、その身体を弓なりに撓らせた。
……数刻後。
遼平が満足げな溜息と共に去った後、志保は震える手で乱れた浴衣を整えた。
太腿にこびりついた熱を、隠すように。
部屋に戻ると、昭雄はまだ、同じ姿勢で眠っていた。
その無防備な背中を見つめると、激しい罪悪感が志保を襲う。だが、それ以上に、身体の芯に残る痺れるような充足感が、彼女の心を支配していた。
寝ぼけ眼で昭雄が呟く。
志保は微笑みながら、夫の隣に潜り込んだ。
彼の清潔な、しかし刺激のない腕の中に収まりながらも、志保の内側には、まだ遼平の熱い脈動が残っている。
「そうね……おやすみなさい、あなた」
志保はそっと目を閉じた。
昭雄が愛しているのは、記号化された「貞淑な妻」であり、今この瞬間に彼女が抱いている「女としての狂気」など、彼は一生知ることはないだろう。
夏の夜の熾火は、誰にも知られることなく、志保の心の奥底で赤々と燃え続けていた。
その熱を、彼女は一生、夫に隠し通すと決めたのだ。
そして同時に、次の密やかな機会を、心の中で数え始めている自分に、志保は恐ろしくも甘美な悦びを感じていた。
(完結)