リビングでスマホを眺めながら、妻の美咲(35)がさらりと言った。視線は画面に釘付け。以前なら俺の顔を見て、申し訳なさそうに言っていたはずだ。結婚して七年。清楚で控えめ、誰に対しても丁寧な彼女が、最近どこか「遠い」場所にいるような気がしていた。
美咲は、いい意味で派手さのない女だった。緩く巻いた茶髪に、清潔感のあるブラウス。だが、最近の彼女からは隠しきれない色香が漏れ出している。香水の系統が変わった。以前は石鹸のような清潔な香りだったのが、今はどこか動物的な、肌の奥から匂い立つような重い香りに変わっている。
「……うん。でも、少し遅くなるかも。女子会だし、盛り上がっちゃったら」
その時、彼女の手元でスマホが短く震えた。美咲は一瞬、肩を強張らせた。そして俺の視線を避けるようにして、スマホを裏返して置く。その所作があまりに不自然で、俺の心臓は嫌な早鐘を打ち始めた。
俺は努めて平然を装った。だが、胃の奥が冷たくなる感覚を無視することはできなかった。
疑惑が確信に変わるのは、その三日後のことだった。美咲がシャワーを浴びている最中、脱衣所のカゴの上に置かれた彼女のスマホが、再び震えたのだ。
普段の俺なら、プライバシーを尊重して見たりはしない。しかし、その時の俺は、何かに取り憑かれたように手を伸ばしていた。パスコードは結婚記念日。指が震える。解除された画面に表示されていたのは、LINEの通知だった。
相手の名は「佐伯」。俺の大学時代からの親友で、今はIT企業の経営をしている男だ。
視界が歪んだ。呼吸の仕方を忘れたように、俺はスマホを握りしめたまま立ち尽くす。裏切られたという猛烈なショック。それと同時に、最悪なことに、俺の下腹部にはドロリとした熱いものが込み上げてきた。絶望と、歪んだ興奮。その二つが脳内で激しく火花を散らした。
それからの数日間、俺は地獄の中にいた。問い詰める勇気はない。問い詰めれば、この壊れかけた平穏すら失ってしまう。俺は気づかない振りをしながら、美咲の変化を細かく観察するようになった。
彼女の態度は、日に日に大胆になっていった。夜、俺が抱こうとしても「今日は疲れてるから」と背を向けられる。だが、その背中は、誰かに愛撫された後のような独特の艶を帯びていた。
ある夜、美咲が寝入った後、俺は彼女のクローゼットを調べた。奥の方に見慣れない下着が隠されていた。黒いレースの、ほとんど布面積のないTバック。美咲が自分から買うはずのない、攻撃的なデザイン。
それを手に取ると、微かに佐伯のものと思われるタバコの匂いがした。俺はその下着を顔に押し当て、妻の体臭と混ざり合った他人の匂いを嗅いだ。
想像が膨らむ。俺は激しい自己嫌悪に陥りながらも、その夜、眠れなかった。
そして、運命の土曜日がやってきた。「ランチに行く」と言って出かけた美咲。俺は、彼女に内緒でGPSアプリを共有していた。地図上のドットは、都内の高級ホテルの位置で止まっている。
俺は吸い寄せられるように、そのホテルへと向かった。ロビーで待つこと二時間。エレベーターから降りてきたのは、予想通り、佐伯と美咲だった。佐伯は余裕たっぷりの微笑みを浮かべ、美咲の肩を抱いている。
美咲は、まるで初恋の少女のように頬を赤らめて彼を見上げていた。
二人は佐伯の黒い高級SUVに乗り込んだ。スモークガラスで中は見えない。しかし、車体がわずかに揺れた。俺は理性を失っていた。気づけば、俺は車のすぐそばまで忍び寄っていた。
運転席の窓が、わずかに開いている。そこから漏れてきたのは、俺が一度も聞いたことのない、美咲の獣のような喘ぎ声だった。
俺は、窓の隙間から中を覗き込んだ。そこには、絶望と快楽の極致があった。清楚だった彼女の髪は乱れ、ブラウスのボタンは弾け飛び、俺の知らない黒いレースのブラジャーから豊かな胸が溢れ出している。
美咲は佐伯の首にしがみつき、激しく腰を振っていた。俺は、目の前で繰り広げられる光景を、心臓が破裂しそうなほどの鼓動とともに見つめ続けた。
怒り? 悲しみ? 違う。俺を支配していたのは、圧倒的なまでの「敗北感」と、それを凌駕する「興奮」だった。
「……っ、いいよ、全部……全部頂戴……あ、あああああ!」
美咲の身体が大きく震え、彼女は力なくシートに崩れ落ちた。荒い呼吸を繰り返しながら、佐伯の手を愛おしそうに舐めた。その顔は、俺との営みで見せるような控えめなものではない。口を大きく開き、快楽に没入している「雌」の顔だった。
俺は、どうやって家まで帰ったのか覚えていない。ただ、リビングのソファに座り、暗闇の中で彼女の帰りを待った。
数時間後、玄関のドアが開く音がした。
美咲の声は、どこか清々しく、潤っていた。その首元には、隠しきれない赤い痕が、勲章のように刻まれている。
俺は彼女の顔を見た。彼女は一瞬、俺の視線に怯えを見せたが、すぐにいつもの清楚な微笑みを浮かべた。
美咲が脱衣所へ消える。俺は彼女の後ろ姿を見送りながら、テーブルの上に置かれた彼女のスマホを手に取った。そこには、佐伯からの新しいメッセージ。
俺は、その画面を見つめながら、静かに微笑んだ。
もう、元には戻れない。俺はこの壊れた関係の中で、妻が他人の男に汚されていく様を、特等席で見守り続けるしかないのだ。手の震えは、いつの間にか止まっていた。代わりに、今まで感じたことのないような、暗く深い悦びが、俺の心を満たし始めていた。
俺は独り言を呟き、彼女が残していった重い香水の残り香を、深く、深く吸い込んだ。